高津監督の現役~絶対大丈夫!燕の守護神がチームにかけた魔法~

2021年のプロ野球ペナントレース、日本シリーズで相まみえたチームは両球団前年最下位だったオリックスとヤクルト。

そして久々に白熱した日本シリーズを制したのは高津監督率いるヤクルトスワローズ。絶対大丈夫の合言葉の元、チーム一丸で掴み取った日本一!

その指揮を取ったヤクルト高津監督、現役時代はどんな野球人生を送っていたのか?

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身近にカープがあった少年時代

広島県広島市出身の高津監督、小学生の時に比治山町にできたマンションに引っ越し、その当時はまだ高い建物が少なく、部屋の窓から広島市民球場がよく見えていたそう。

それ故か自然と広島東洋カープのファンとなり、当時カープが初のリーグ優勝に沸いていた時期でもあり、特にミスター赤ヘルこと山本浩二のファンだった。

 その影響を受けてか小学3年生の時に地元の軟式野球チームに入り野球を始め、その後は張本勲を輩出した段原中学校、自宅に近い広島工業高等学校に進学。

活路を見出すための投球フォーム

高校時代には周りにずば抜けた存在がおりその中で何か特徴が欲しいと感じ、当時スリークォーターをアンダースローに変更。

高校卒業後は亜細亜大学へ進学し、同期と2本柱で活躍した結果1990年に大学野球リーグにて春秋季連続優勝を果たす。

高津は大学2年生時にアンダースローからサイドスローに再び修正し、この時に変化球のシンカーを投げるようになったという。

叶わなかった入団

小さい時からカープファンだった高津は大学卒業後にカープに入団することを希望していたがカープは横手投げ、つまりサイドスローは獲らないとしていた。

そんな時、大学に別の選手の視察に来ていたヤクルトのスカウトが高津の横手投げに注目し、1990年のドラフト会議にてヤクルトから3位で指名され入団した。

野村監督との出会い

ヤクルト入団当時は抑えではなく先発として期待されていたが思うような成績を残せていなかった。

そんな時、野村監督の助言によって遅めのシンカーの習得を命じられる。そしてそこから野村監督の教えを受け、遅めのシンカーの習得に成功。

そして3年目の1993年5月2日の巨人戦にて初セーブを記録。

その後、この年は当時の球団記録を更新する20セーブを記録しリーグ優勝に貢献。西武との日本シリーズでは第7戦で8回から登板し胴上げ投手となる。

セーブ王そして世界へ

その後は1994年にプロ入り初のタイトルとなる最優秀救援投手を獲得し、1995年には28セーブを挙げ自身の記録を更新。

しかしそこから数年は好不調の波が激しく抑えとしてもなかなか結果が出ずにいたが、1997年にはチームはリーグ優勝を果たし、高津自身は日本シリーズで3度目の胴上げ投手。

そして1999年に30セーブを挙げ2度目の最優秀救援投手のタイトルを獲得し、2001年には自己最高の37セーブを挙げ3度目の最優秀救援投手となりチームのリーグ優勝・日本一に貢献し、4度目の胴上げ投手となった。

2003年には34セーブを挙げ、横浜の佐々木主浩の持つ229セーブのプロ野球記録を更新する286セーブを記録。

そして同年オフにはFA権を行使し、メジャーリーグのシカゴ・ホワイトソックスと1年契約を結ぶ。

世界の壁

2004年の4月9日にヤンキース戦で初登板を果たし、最初の対戦相手となったのがプロ入り後、高津から初の本塁打を打った松井秀喜であった。

5月1日のブルージェイズ戦にてメジャー初勝利を飾り、6月12日のブレーブス戦にてメジャー初セーブを記録。

また同年は24試合連続無失点も記録し地元メディアから「ミスターゼロ」と呼ばれ、シーズンは19セーブを記録し、球団と再び1年契約を結ぶ。

しかし2005年は開幕から抑えを任されるも序盤から救援失敗が続き、7月に戦力外となり8月にFAとなった。

その後は12日にメッツとマイナー契約を結び、9月1日にメジャーに昇格するもFAとなり退団。

古巣への復帰

2006年に古巣のヤクルトで入団テストを受け3年ぶりに復帰。シーン途中から抑えを任され、10月7日の広島戦にて日米通算300セーブを達成。

2007年は引き続き抑えを任されるも6月に左足親指を剥離骨折で離脱。その後は救援失敗を繰り返し、最終戦翌日の10月10日に戦力外通告を受けた。

様々なリーグを渡り歩く

その後は再びアメリカのマイナー、韓国、台湾など海外のリーグを渡り歩き、2011年1月に日本の独立リーグ・新潟アルビレックスBCに入団。

名球会の会員が独立リーグでプレーするのは史上初の事であった。

2012年は選手兼任監督に就任し、8月31日に現役引退を表明。

9月22日に行われた引退試合では試合後に、終球式が行われ、ヤクルト時代にバッテリーを組んだ古田に最後の1球を投じている。

プロ野球内外で

高津選手は非常に明るいキャラクターで、選手時代のシーズンオフにはよくパンチパーマのかつらを被り、クリスタルキングの「大都会」を熱唱。

1993年の『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』では珍プレー大賞を受賞している。

まとめ

 広島の地で生を受けカープが身近にあった子供時代、己自身を生かすための投球フォームの試行錯誤を繰り返した学生時代。

憧れのカープへの入団が叶わなかったが、その後の転機となるヤクルトへの入団により、抑えに活路を見出し守護神に君臨。

舞台をメジャーに変えその後は様々な世界の球団を渡り歩く事で様々な知見を得て、チームを指揮して行く上で大切な柔軟性が身についたのではないだろうか?

その後就任した監督では1年目は最下位となり、広島戦との最終戦にて「来年は首位争いをしましょう!」と力強く演説した。

結果ヤクルトは熾烈な首位争いを展開(阪神ファンの自分にとっては消化不良)。

自分が感じた高津選手はクローザーのイメージが強く、プロ野球に興味を持ち出した時には既にメジャーからヤクルトに復帰した後で、本格的に見始めた時には再び海外にいてプロ野球では見ることがなかった。

 今期のチームとしてのヤクルトは全体的にバランスが良く、まさにチーム一丸でリーグ優勝を飾り、そのチームを指揮した高津監督、日本シリーズでよく聞いた「絶対大丈夫!」。

その言葉と今までの選手としての経験がチームを鼓舞し日本一へと導いたのかもしれない。

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